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旧暦ですが、戦国時代の今日5月28日には以下のようなことがありました。

①永正4(1507)年5月28日
細川澄元・香西元秋らが丹後賀屋城を攻める。

②永正7(1510)年5月28日
細川高国が松田長秀に命じ、鞍馬寺境内地下人の諸役を免除する。

③永禄元(1558)年5月28日
尾張岩倉城の織田信賢が美濃の斎藤義龍と通じ織田信長を攻撃する。

④永禄3(1560)年5月28日
長宗我部国親に土佐長浜で敗れた本山茂辰が朝倉城に立てこもる。

⑤永禄9(1566)年5月28日
摂津伊丹城の伊丹忠親が池田城主・池田勝政の堺出陣の隙を狙い池田城を攻める。

天正3(1575)年5月28日
男子のない大友家臣の立花道雪が、娘の誾千代(ぎんちよ)に立花家の家督を譲る。

天正10(1582)年5月28日
明智光秀丹波愛宕山にて紹巴らを招き連歌会を催す。

⑧慶長20(1615)年5月28日
賤ヶ岳七本槍の一人として知られる片桐且元が自刃。享年60歳。

①永正4(1507)年5月28日
細川澄元・香西元秋らが丹後賀屋城を攻める。

奇行で有名な細川政元の養子の一人である細川澄元が丹後の一色氏の城を攻める。
この時の香西元秋は、後に細川澄元の居館を囲んで襲撃したメンバーに参画する。

②永正7(1510)年5月28日
細川高国が松田長秀に命じ、鞍馬寺境内地下人の諸役を免除する。

奇行で有名な細川政元が暗殺された前後で、室町幕府の主要な官吏人事は、ほとんどが入れ替わったとされる。
しかしながら、能吏で知られた松田長秀はその前後の期間に於いても、枢要なポジションを占め、それが可能であるだけの傑出した能吏であったとされる。

③永禄元(1558)年5月28日
尾張岩倉城の織田信賢が美濃の斎藤義龍と通じ織田信長を攻撃する。

織田信長の織田家にとっての旧主「織田大和守家」の宿敵であり、織田一門の盟主であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代「織田伊勢守家」の織田信賢が美濃の斎藤義龍と気脈を通じ、織田信長を攻撃するが、破れて追放される。

④永禄3(1560)年5月28日
長宗我部国親に土佐長浜で敗れた本山茂辰が朝倉城に立てこもる。

一部で爆発的人気があるらしい長宗我部元親の父である長宗我部国親が、抗争関係にある本山茂辰の前線の堅城である長浜城の城門修理の際に細工をし、長浜城に夜襲を掛けて容易に城門を突破する。これを承けて本山茂辰よりも多数の軍勢を集めることとなり、5月20日、乱戦の結果、本山茂辰側は、勢いに勝る長宗我部国親に押される形で本拠である朝倉城に籠城することになる。

⑤永禄9(1566)年5月28日
摂津伊丹城の伊丹忠親が池田城主・池田勝政の堺出陣の隙を狙い池田城を攻める。

摂津国内の国人どうしの抗争で伊丹城(現伊丹市)の城主が池田城(現池田市)を攻めるという、大阪の人には、中学生の抗争レベルに思える、極めてローカルな話。

池田勝正は、ほぼ無名の武将であるが、織田信長からの評価は高いものがあった。

織田信長の戦略的奇襲である越前・朝倉攻めが北近江・浅井氏の寝返りで失敗に終わった時、実は、兵三千と多数の鉄砲を運用した池田勝正こそが殿を請け負い、織田信長の生還と織田勢主力の温存に多大な貢献をしていた。

しかしながら、直後に池田氏内の抗争で勢いを失い、無名の存在となるが、織田信長からは摂津国内向けの監視役として処遇された。

天正3(1575)年5月28日
男子のない大友家臣の立花道雪が、娘の誾千代(ぎんちよ)に立花家の家督を譲る。

立花道雪は、武田信玄も会いたがったとされる北九州最高の名将であるが、後を継がせる実子は、娘の誾千代のみであった。

通常であれば養子を迎える状況であり、立花道雪の名家老である薦野増時を養子としようとしたらしい。
だが、薦野増時は、立花道雪に対して「現在の立花氏の家中は、立花道雪に対しては絶対的な忠節を誇るものの、内実は様々な出身者による寄合所帯であり、安易な家督相続は立花道雪の死後に内紛を引き起こす」と諌め、娘の誾千代が家督を継ぐこととなる。

後年、立花道雪は、大友家で立花道雪に次ぐ将帥であった高橋紹運の嫡男を、強引に婿養子に貰い受け、立花宗茂となるが、誾千代との夫婦仲は悪かったらしい。

立花宗茂は、時の天下人・豊臣秀吉からも「東の本多(平八郎忠勝)、西の立花(宗茂)」と賞賛される武将となり、大友家が朝鮮征討での敵前逃亡から改易されても立花家には関係なく、関ヶ原の合戦で一旦は改易されるも、恐らくは立花宗茂の武勇と人柄を天下安泰のために重要と考えた徳川家康の指示で、旧領に復帰した唯一の大名となる。

なお、立花道雪に養子となることを望まれた薦野増時は、長年の忠勤に対する恩賞として、“立花道雪の隣の墓に埋葬される権利”を得る。

関ヶ原の合戦立花宗茂が改易された後、黒田如水の勧誘に対して、自身は旧主・立花道雪が眠る梅岳寺(現在の福岡県新宮町)の墓守をすることを希望した。
黒田如水はその息子を召し抱え、薦野増時には隠居領を与えた上でその希望を認め、死亡後は恩賞の約束の通り、梅岳寺の立花道雪墓所の隣に葬られた。

天正10(1582)年5月28日
明智光秀丹波愛宕山にて紹巴らを招き連歌会を催す。

織田家勢力圏の東方に対しては、甲斐征伐で武田家が滅亡し、清須同盟に於ける織田家の東側の防壁としての徳川家の役割に一区切りがついたので、徳川家康織田信長の招きで京都方面に出向き、5月15日には、織田信長に招かれて、明智光秀の手配りにて、安土城で歓待される。
ここで、西方情勢より、明智光秀徳川家康饗応役を外れ、西方方面への出陣準備を指示される。

同時期の織田家勢力圏の西方では、羽柴秀吉傘下の黒田如水による備前美作の宇喜多直家に対する調略が成功したことにより、摂津で叛乱を起こした荒木村重の勢力も崩壊、山陽道が一気に織田側に打通され、織田信長と毛利家との境界線が備中となる。
これを承けて、織田信長の中国方面軍である羽柴勢が備中に向けて侵攻を開始し、最大の障害となる備中高松城清水宗治に対して、備中一国をカタに投降することを勧めるが、清水宗治は同意せず、4月4日に備前岡山城に入城した羽柴秀吉は、4月14日に宇喜多秀家の兵とともに備中竜王山に布陣、宮路山城・冠山城を包囲し、冠山城は4月20日、宮路山城は4月25日に落城する。
(優勢な毛利水軍を牽制するため、その主力である三家からなる村上水軍の一つを仕切る来島通総が、羽柴秀吉の調略で織田方に寝返り、村上水軍間でも内紛となっていた。)

5月7日より羽柴秀吉による備中松山城攻めが始まり、周辺が低湿地帯で、城攻めには不向きな地勢である備中高松城に対して、水攻めを行うべく、水を蓄えるための堤を築く、大規模な土木工事を開始する。
織田信長の三男・織田信孝も四国征討のために、丹羽長秀と、堺で編成を進めていた。)

当然ながら、毛利家主力の来援が予想され、羽柴秀吉が毛利家主力を単独で打倒してしまうと、織田体制下での将来の位置づけが危惧されることから、主君・織田信長に華を持たせるためにその出馬を仰いだことから、織田信長も出陣する気になる。

当時の織田体制下では、方面軍・軍団制を採り、各方面の担当武将に大兵力とある程度の采配の自由度を与えていたが、一方では叛乱に対しての備えも必要であり、そのために織田信長直属軍があり、近畿の警戒部隊として、明智光秀が一軍を率いて待機する体勢が取られていた。

実際に、甲州征伐でも、武田勝頼の内政・外交上の放蕩により、武田家側が勝手に自壊したことから、織田家家督を継いで、武田家と対峙していた織田信忠が先発したまま、甲府に至ってしまったが、織田信長明智光秀を同行させる形で進軍している。

従って、本来ならば、中国地方への明智光秀投入も武田家に次いで毛利家も打倒しようとする織田信長の意志と見ることができるのであるが、この後に起きた日本史上最大の謎となる出来事で、このあたりの話は飛んでしまう。

織田信長が毛利攻めに出陣することとなったため、近畿で親衛軍的な役回りであった明智勢に5月17日に出陣を命じられ、明智光秀は居城の近江坂本城を出陣、5月26日に軍勢の集結拠点である丹波亀山城に移動し、明智光秀の軍勢が出陣の準備を進行中であった。
その準備作業の最中、元から予定でもあったのか、亀山城側の丹波愛宕山にて明智光秀連歌の会を開き、「時は今 雨が下しる 五月哉」と詠む。

歌の解釈として、「天が下知る」というのは、朝廷が天下を治めるという「王土王民」思想に基づくもので、「五月」に起きた過去の政変・戦いがいずれも桓武平氏(平家・北条氏)を倒すための戦いであったことから、平氏を称していた織田信長を討つ意志を表しているという説がある。
しかし、これらの連歌愛宕神社に奉納され、織田信長親子が内容を知りうるモノであり、また、この連歌の会の後に、石見の国人・福屋隆兼に対して、明智光秀が中国出兵への支援を求める書状を送っていたとする史料もあり、この時点では謀反の決断をしておらず、謀反の思いも表されていなかったとの見方も出来る。

また、同時期に明智光秀の娘婿である細川忠興は一色義清の丹後弓木城を攻める。

⑧慶長20(1615)年5月28日
賤ヶ岳七本槍の一人として知られる片桐且元が自刃。享年60歳。

片桐且元は、豊臣秀吉のもとで参陣した賤ヶ岳の合戦において、賤ヶ岳七本槍の一人として著名ではある。
一方で、有能な家臣を独立大名化していった豊臣政権下では、豊臣家直属の立場に留まっていたことから、豊臣秀吉の人事評価では、関ヶ原の合戦での主役となった石田三成大谷吉継と比較した場合は、二軍以下の評価であったと思われる。

豊臣秀吉の人事評価での一軍メンバーのうち、最も信用できた文治派の石田三成大谷吉継等は関ヶ原の合戦で消えていき、文治派と仲が悪かった武功派の加藤清正福島正則等が徳川家の体制下で将来的に消えていく中、片桐且元は豊臣家直属の立場のまま困難な局面に至る。

方広寺の鐘の銘「君臣豊楽、国家安康」が当時の社会通念上、不適当であったことは間違いないところであるから、片桐且元の裁量として、独断で作り直す選択肢もあったであろうが、徳川家を説得することも、豊臣家をまとめ上げることも出来ず、大坂冬の陣を前に、大阪城から追放同然に出て行くこととなる。

大坂冬の陣・夏の陣とも、徳川家康に協力する姿勢を示すが、大阪城が落城して豊臣家が滅亡し、さらには正妻である千姫を憚って、豊臣秀頼の伯母の嫁ぎ先である若狭の京極家に預けられていたはずの豊臣秀頼の庶長子・国松丸までもが大阪城近隣で捕縛されて斬首となったことから、気落ちしたのか、まもなく死亡し、病死とも、自害とも伝わる。

タグ:戦国研究 明智
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